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 ▼ フィリップ・カウフマン『存在の耐えられない軽さ』 (88 米)


 これはずっとアメリカ映画じゃないと思ってた。なんでアメリカ映画なのか、いまだもって不明。英語でしゃべるのやめてほしいよなぁ。なんか似合わない。でもフィリップ・カウフマン監督は、ジョージ・ルーカス とともに『レイダース/失われたアーク』の原作だってんだから、ますますもって、わけわからん。『ヘンリー&ジューン』の監督というのはつながるんだけど。そんなふうに考えると、これはミラン・クンデラの原作の力なのかとも思えてしまう。
 
 これって結局のところ、ダニエル・ディ・ルイス、ジュリエット・ビノシュ、レナ・オリンの三つ巴戦なんだね。そういうふうに観ると、軸としては、ジュリエット・ビノシュであっても、蜘蛛女=レナ・オリンに食われてんじゃないかと思う。だけど、ここでジュリエット・ビノシュ演じるテレーザという女は、脆いの反対、鉄でいうと、鋼ではなくて軟鉄のような二枚腰な女なわけで、レナ・オリンのサビーナのほうがぱきんと行ってしまいそうな女なのだから、そこは当たり前か。『二人のベロニカ』のイレーヌ・ジャコブに重なってきたりする。ソ連が進攻(ポーランドとチェコの違いはあるのだけれど)が絡むというだけで、それは単純か。
 ボクはよりアクの強いレナ・オリンのほうが好み。顔なんかもそうだし、この映画の中での役回りなんかもそう。でも現実に、その二人の女がいたら、ころっとジュリエット・ビノシュのほうに行っちゃうんだろうな。そういう意味でいうと、トマシュに重ね合わせてしまっている。つまり男なんて、女でころっと変わってしまう。。。。『存在の耐えられない軽さ』が意外と中盤で出てくる。そう「あなたのその存在の軽さが耐えられないのよ」という一言で、トマシュが変わってしまうように。それでも、まだふらっと行ってしまう男っておバカなのか、逆にその軽さが男なんだと思うんだけど。そう考えたら、この映画は、男が観るのと女が観るのでかなり違って見えるのじゃないかなと思う。

 それで、原作は読んでないのだけれど、書評などを見ていると、女男女の三つ巴より以上にチェコ、プラハの春が軸となったトマシュの話のようにとらえられる。原作の冒頭でいきなり「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」と書かれているという。そうすると、これがアメリカ映画だからこそおもしろいかったのじゃないかというところに戻ってくる。アメリカであろうが、日本であろうが、フィリップ・カウフマンが意図したであろうが、なかろうが、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を逆転して、さらに逆転してしまって(逆説の逆説)るからおもしろかったのじゃないか。これが『二人のベロニカ』のように地つながりのヨーロッパ映画であったのなら、「存在の耐えられない軽さ」にまで至らなかったのじゃないかという気がする。何はともあれ、ボクにはすごくおもしろい映画である。

 トマシュ=ダニエル・ディ・ルイスのギラギラの眼に憧れる。

★★★★★  



2001年12月26日(水)
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