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■ ▼ 寺山修司『田園に死す』 (74 日)
とあるサイトでこの『田園に死す』の評を見たけれど、時代は変わってしまってんだよなぁという感じが強い。 「なんか『ピアノ・レッスン』みたいですね。」 というのには、ほんとトホホだった。そう感じる彼がいけないのでなくて、時代がそうだったんだからとしか言いようがない。 冒頭にテロップされ音読される
大工町米町寺町仏町老婆買ふ町あらずやつばめよ 新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥
これらの歌にどういう脈絡を求める? ふっと提示されたことばの断片から、どうぞご勝手に、君が紡ぎだしてくれたらよし。 寺山の同名の歌集『田園に死す』 これとてまともに頭から読んだことなどない。うんうん、あの歌はこうつながって、あ、そうか、あれはこの歌のための伏線だったのか、なんて、誰も読みやしない。ふっと開かれたページから飛び込んでくる歌が自分のヘドロのそこからぽこっと湧き出たメタンガスの泡沫のように浮き上がりぽっと消え去る。ときにはヘドロをかき回し、ただそれだけのこと。脈絡などを求めず、しかし通して読んでいると、ヘドロは知らぬ間にか真っ赤な血の池のヘドロに変えられていた。 映画のほうだといちおうまがりなりにストーリーらしきものはある(あるからいけないのか)。が、それでもやはり、ひとつひとつの映像の断片が寺山の歌を映像となって現れているだけなのだ。そう考えてみると、をーをーっとのけぞって見られるのになぁ。
どこからでもやり直しはできるだろう。母だけではなく、私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。そしてこれはたかが映画なのだから。 個人史において、物語にもならない澱みがいくつもある。それをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、投げつけられるほうはたまったもんじゃない。その快感。つながりなどはあるというのか、少年の目の前に次から次と現れることどもの葬列。葬列の人々は、つながりはあってない。そしてどのようにでもつないで見せられる。またどのようにつないで見ようがこっちの勝手。 昭和20年、9歳の時にアル中のためにセレベス島で父は亡くなった。「ちょっと、死んだ父ちゃんに会いたくなったんだ!」と真夜中のに恐山に向かう少年、そのあまりの簡潔さ、あまりのあっけらかんに足許がすくわれる。川を流れてくる七段飾りにがつーんと頭に風穴を開けられる。恐山賽の河原を横一列に並んで向かってくる老婆に背筋をなぶられる。顔の白塗りは予定通りのお約束。だって、「私自身がつくり出した一片の物語の主人公」なのだから。 あまりに土着的な下北の風景、寺山の繰り出す大仕掛けになすがままに翻弄されよう。それは快感以外のなにものでもない。「これはたかが映画なのだから。」
制作・原作・脚本・監督 寺山修司 美術 栗津潔 意匠 花輪和一 撮影 鈴木達夫 出演 八千草薫 / 春川ますみ / 新高恵子 / 高野浩幸 / 管貫太郎 / 斎藤正治 / 三上寛 / 蘭妖子 / 小野正子 / 栗津潔 / 木村功 / 原田芳雄
★★★★★
2002年01月02日(水)
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