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 ▼ ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』 (1963 仏, 伊, 米)


 当時、ビカビカ絶頂のB.B.ことブリジット・バルドーが主演。そしてそのB.B.のもうたまらないばかりの全裸(後ろだけね)がまぶしくてまぶしくて指くわえて見てました。そのどうにもこうにもしゃぶるつきたくなる肢体がいきなりどーんと、「わたしってきれい?」これだもん。永遠の憧れだネ。
 さて、実名で出てくるフリッツ・ラングの『オデュッセイア』が、こんなわけのわからんもん商売になるわきゃねえだろうと、アメリカのプロデューサー・プロコシュ(ジャック・パランス)が、カミーユ(B.B.)の旦那の劇作家ポール(ミシェル・ピッコリ)に脚本を書き直させようとする。ここんところは、この1960年頃、映画の主導権というか、メインがイタリア、フランスからアメリカに移るころで、つまり映画が商業主義にどっとなだれ込むころだった。そういう背景にあって、いきなりイタリアのチネチッタスタジオでの撮影現場をいきなりもってきたり、B.B.がフリッツラングに初めて出会うときに「西部劇の『無頼の谷』はよかった」というのに、フリッツ・ラング自身は「『M』のほうがいい」。あとちこちこフリッツラング自ら発しているのか、ゴダールがしむけてるのか、はたまた二人の共同謀議なのか、商業主義映画をちくちくと。思うにいくらゴダールとはいえ、フリッツ・ラングってのはゴダールにしてみれば偉大な師匠であるし、そこここにリスペクトしてるのが見られるのね。フリッツ・ラングのパートはかなりの部分でフリッツ・ラングにまかせてたんじゃないか。
 話の筋は、そういう商業主義=プロコシュに身売りしてしまうポールにカミーユが愛想つかしてしまう ― 軽蔑する。カミーユが心変わりしてしまう、ポールとカミーユの関係が突然破綻してしまう。ここのところは、ゴダールとアンナ・カリーナとの関係がかぶさってきて、さらにはこれにがかぶさってくる。なんとも、これじゃ商業主義に食われてしまって当たり前か(苦笑)
 『オデュッセイア』とのかぶりはフリッツ・ラングがこの中で解説してくれてるので、そのまま引用。
 「祖国イタケへの帰還を急がなかったのは、妻との不幸な生活のせいです。トロイ遠征の前から二人の間はうまくなかった。幸福なら遠征しません。戦争を口実に妻を避けたんだ。」「(妻への求婚者を次々と殺した)のは説明できます。最初ユリシーズは求婚者は放っておけと妻に言います。彼らが真剣に言い寄っているとは思わず、醜聞を恐れ追い払わなかった。彼は妻の貞淑さを知り、求婚者に対する親切を許すのです。この瞬間から妻のペネロペイアは、実際は単純な女なので、彼を軽蔑します。夫の態度ゆえに愛せなくなった自分に気づき、彼に告白します。ユリシーズはこのとき自分の慎重さによって愛を失ったとやっと気づく。妻の愛を取り戻すには求婚者を殺すしかない」
 だが、これにポールは「死は結論とはなりえない」と、そして映画史の中でももっとも美しいとボクが思っているシーンに。このシーンは最高に美しくてせつない。男と女の最終的なすれ違いを描いた情景でこれ以上のものはないとボクは確信してるよ。つまり海に突きだした岬の上の別荘の屋上で海を背景にB.B.が右から左へ動いていく。そのB.B.をカメラは追って左に動き止まってしまう。そのままB.B.はスクリーンの左へ。カメラはそのままただ茫洋とした海を映している。10秒もないはずなのにこの時間がやたら長く感じてしまう。この時間がむちゃくちゃにせつないんだよなぁ。そしてスクリーンの左からミシェル・ピコリが入ってくると、今度はカメラが一緒に右に動き出す。ほんとになんてことはないシーンかもしれない。だけどこの間の10秒足らずの海しか映っていない、この時間というのに叩きのめされたように感じてしまう。こんなの強烈なすれ違いを体験してみないと絶対にわからないだろうな。ボクが初めて『軽蔑』を見たときには何も感じませんでした。
 空をバックにしたギリシャの彫像たちだとか、一転、室内の色の鮮やかさ、赤、青、黄色・・・そして音。どっからどこまでも最高にしみ込んでくる、少なくともボクにとっては永遠の一本という映画だと確信してる。

LE MEPRIS
監督・脚本 ジャン=リュック・ゴダール
原作 アルベルト・モラヴィア
撮影 ラウール・クタール
音楽 ジョルジュ・ドルリュー 
出演 ミシェル・ピッコリ / ブリジット・バルドー / ジャック・パランス / フリッツ・ラング
★★★★★



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2003年02月16日(日)
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