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■ クシシュトフ・キェシロフスキー『デカローグ 1 ― ある運命に関する物語』 (1988 ポーランド) ★★★★☆
いよいよ『デカローグ』行っときます。 『デカローグ』というのはポーランドのテレビ用に撮りおろされた連作で、「Deca=10」の「logue=物語」。『十戒』になぞらえて、「10の物語」としたらしいけれど、そう宗教っぽかったり、説教臭かったりするわけじゃない。って、まだそのうちの4つ見ただけなので、全体についてはおいおい書くことにしよ。 さて、いよいよその第1話『ある運命に関する物語 ― あなたは私の他になにものをも神としてはならない』から。ストーリー書いてしまってもいいよな。どうせ前半でどう話が進みそうだかわかってしまうから。 大学教授クシシュトフ(ヘンリク・バラノフスキー)とその息子バヴェウ(ヴォイチェフ・クラタ)の二人暮し。パヴェウの母親は《15時33分 寝ている》と、たぶん死に別れたらしい、そこらは暗に示されるだけにすぎない。こういうふうにはっきりと示されないところはキェシロフスキーに慣れとかないと辛いかもな。逆に言えば、それがいいんだけど。それでまだ幼い、小学校2,3年くらいのバヴェウのめんどうは叔母のイレーナ(マヤ・コモロフスカ)が見ている。このバヴェウのヴォイチェフ・クラタが強烈に可愛いのな。いわゆる子役のこまっしゃくれたところなど微塵もなくて、世の中にこんな可愛い男の子がおるかってくらい。 で、父親は大学で、何だろ言語学か?翻訳がどうとかこうとか言うておったな。どっちかというと文系。なのに、「小さいときにすべてのものは測れる」と考えて、今ではすべてをコンピューターに持ち込んでしまう。家には自分用と息子用のコンピューターが2台ある。そうしてなんもかんも数式化して物事を考えようとする。 ところがある日、バヴェウが犬の死骸を見たことで「死」というものを意識する。あ、『デカローグ』では結構動物の死というのが導入になってるね。そしてこのコンピューターによる数式化と「死」の接点に、このたまらなく可愛いバヴェウが置かれていく。 ここでね、バヴェウの死骸は描かれない。死そのものも描かれない。すべてがキェシロフスキー独特のメタファーで表現される。そこには確かに「死」という「運命」が目の前に表されるのだけれど、それは決してバヴェウの「死」「運命」は直接表現されない。これって、ふつう映画では、我慢しきれずにそのものを見せつけてくるんだけれど、キェシロフスキーは決して見せない。ひょっとすると、バヴェウがひょっこりとあの可愛い顔を現すのかもしれないと。でもその淡い期待は絶望的だ。このいたたまれなさの見せない表現のせいで、いつか見ている側の自分もその父親にすり替えられてしまう。 すべての計算が狂いだした。あの洩れるはずの無いインクが紙の裏から滲みだしたときに。
Dekalog 1 監督 クシシュトフ・キェシロフスキー 脚本 クシシュトフ・キェシロフスキー / クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 撮影 Wieslaw Zdort 音楽 ズビグニエフ・プレイスネル 美術 Halina Dobrowolska 出演 ヘンリク・バラノフスキー / マヤ・コモロフスカ / ヴォイチェフ・クラタ
2004年01月18日(日)
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